1日目は、沖縄戦について学ぶ企画。
ひめゆり学徒が体験した陸軍病院跡やひめゆり記念館を見学、宮城喜久子さんの証言を聞きました。
南風原(はえばる)陸軍病院(右の写真)に、3月末沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が18人の教師に引率され看護補助要員として動員されます。
陸軍病院は、南風原に40の横穴壕を掘って負傷兵の治療に当たりました。
唯一残っていた20号を見学。高さ・幅とも1.8m、長さ70mの横穴壕で、土壁にそって粗末な2段ベッドが備え付けられただけの施設でした。
4月1日米軍の沖縄本島上陸に伴い、前線から負傷兵が次々と送られてきます。
病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満して負傷兵のうめき声とどなり声が絶えなかったそうです。
4月末に部隊の一部は糸数アブラチガマに移動します。
ここは、全長270mの鍾乳洞の洞窟で、多い時で600人~1000人の負傷兵や病気の兵の治療に当たったそうです。
治療といっても壊疽を起こした手足を切断するだけで、切断した手足を洞外に運んだり、重症患者の傷にわいた蛆を取るのが学徒の仕事の一つでした。
ひめゆりの塔は、糸満市の伊原第三外科壕跡(ガマ)に建てられています。
このガマの中に当時50名のひめゆり学徒をはじめ、病院関係者、住民などおよそ100名がいました。
6月18日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、約80名あまりが死亡。
生き残ったひめゆり学徒は5人だけだったそうです。
ひめゆり平和祈念資料館には、戦場でのひめゆり学徒や負傷兵の実態、発掘された医療器具や生徒が携えていた品々、200余名の犠牲者の遺影が貼られていました。
二度と戦争を起こしてはいけないとの強いメッセージが伝わりました。
ひめゆり学徒が死の彷徨をした荒崎海岸を回り、自決した10人の慰霊碑で黙祷、その後宮城喜久子さんの証言を聞きました。
「皇民教育で育てられた学徒は積極的に看護要員として馳せ参じました。
しかし、現場は想像を絶するものでした。
手足の切断で卒倒していた学徒も、『この大根どこに捨てるの』というまでになりました。
戦争は人を人でなくすのです。
教育というのは真実を伝えること。
今だに悔しい。
若い人たちに真実を見る目を学ばさなければならない。
平和じゃないと生きられない。
国策として国民を殺さない日本に。
国民一人ひとりが生きていくことが守られてこそ国ができるんです。
勇気を出して平和を作る一人ひとりになってください。」
多くの若い参加者は、ひめゆり学徒から直接話を聞いて心うたれました。
尿失禁(尿漏れ)はくしゃみや咳、重いものを持ったときなど、つい漏れてしまう『腹圧性尿失禁』、トイレに行きたくなるともう我慢できない『切迫性失禁症』の2種類があります。
骨盤底筋が弱ると起こる
どちらも骨盤底筋という筋肉がゆるむことでおこります。
骨盤の底で膀胱や子宮、直腸などが下がらないように、支えている筋肉群です。
骨盤底筋が収縮する力が弱まると、尿道や膣が十分に締まらなくなります。
そのため、お腹に力がかかると尿が漏れてしまうのです。
最も基礎的な予備体操
最も基礎的な体操は、
◎脚を肩幅くらいに開いて立つ。
(肩幅に開くと骨盤底筋に負担がかかるので効果がある)
◎下腹を体の中に引き込むような感じで、強く締める。
(おしっこを我慢するようなイメージ)
◎その姿勢で5つ数える。
(筋肉の力がつくと、長く強く締めることができる)
茨木診療所 所長
安達 克郎
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